「武蔵野市歴史クイズ」
難易度を ★であらわしています。 ★が多いほど難。

■第73問 ★
昭和22年11月3日武蔵野市誕生(東京都下3番目)から昭和38年までの16年間は、第二次世界大戦後の物資欠乏の厳しい時代から、朝鮮特需、神武景気、なべぞこ景気、岩戸景気などの景気の影響を受けながら、六三制教育の施行に伴う小中学校の新増設・農地解放、道路整備、三鷹駅北口、吉祥寺駅周辺の再開発事業、市営水道の開設、ゴミ処理場建設、公会堂建設…等々成長と変化の時代でした。
さて、この16年間を市長として引っ張った初代武蔵野市長は誰でしょうか?
■第74問 ★
昭和22年11月の 市制施行時の 人口は 約6.7万人 でしたが
昭和38年では どれだけの人口だったでしょうか?
■第75問 ★
この時代には 市町村合併の機運が二度ほど盛り上がった。
最初は昭和28年秋の町村合併促進法成立の時。
武蔵野市議会は承認、三鷹市議会は一回目は一票差、二度目は二票差で否決
二度目は昭和33年 新市町村建設促進法成立の時。
三鷹市議会は可決、武蔵野市議会は否決で実現せず。
さて、第一回目の町村合併促進法の際、実は武蔵野と三鷹だけでなく、他に3つの町(当時)が一緒に合併する案があった。この3つの町とは どこでしょうか?
ちなみに、最初の合併の際には特別区(武蔵野区?)という話もかなり論議されたらしい。
結局、都にはその考えはまったくなかったようであるが。
■第76問 ★
昭和26年、三鷹駅から国鉄の支線・武蔵野競技場線(グリ−ンパ−ク線)が開設されたが、主に野球場(グリ−ンパ−ク)が土ぼこりのひどさなどの理由から、わずか二十数回運転しただけで使われなくなり、昭和35年に廃線となった。 駅の跡地は現在何になっているでしょうか?
ちなみに、昭和26年完成したこのグリ−ンパーク野球場は、7万人収容で土盛式球場としては日本一だった。
■第77問 ★
京王電鉄は井の頭線を吉祥寺から成蹊学園を経て田無駅まで延伸する計画をもっていたが、グリーンパークにスポ-ツ施設ができるのに着目して、昭和24年ごろ積極的になった。
ただ、吉祥寺駅からは北口の商店街の反対が強く無理と判断したため、別のル−トを考えて地方鉄道施設免許の申請を行った。武蔵野市長も関係四市町で期成同盟を作る提案を議会に行っている。
さて、昭和24年時点でのその別ル−トとはどのようなル−トだったでしょうか?
■第78問 ★
前問の計画は、武蔵野市域での用地買収の困難化、西窪(当時)地区の大反対などもあり、また、昭和25年になると国鉄が前述の三鷹駅から武蔵野競技場への乗り入れ工事に着手したため頓挫し、再び吉祥寺駅基点に戻された。
さて、今度のル−トはどのようなものだったでしょうか?
■第79問 ★
武蔵野市に拠点を置いた武州鉄道建設発起人は、昭和34年1月東京陸運局に地方鉄道鉄道敷設免許申請書を行った。
その路線は 吉祥寺(三鷹)を基点に 終点はどこになっていたでしょうか?
■第80問 ★
この武州鉄道建設発起人には関係市町村長のほか、政財界の著名人も名を連ねていました。
この発起人総代に選ばれたのはなんという人だったでしょうか?
■第81問 ★
この武州鉄道の免許申請に、もっとも危機感を抱いたのはどこの鉄道会社だったでしょうか?
■第82問 ★
大方の予想を裏切り、昭和36年の夏、武州鉄道に対して免許がおりた。申請から僅か2年半という異例の早さで、しかも直前に免許となった西武との競合路線であったにもかかわらずである。
さて、これは一般にどうしてだったと言われているでしょうか?
■第83問 ★
武州鉄道の建設に伴う沿線開発の名目で、大和町(現在の東大和市)内には団地の開発計画が持ち上がった。予定では、西部・中央・東部団地の3つで、免許申請直後から大和町内には「武州鉄道協力会」が組織され、用地買収が積極的に行なわれた。これにより、活動1ヵ月余で約7万5千坪の農地が団地用地として売買契約され、通称「武鉄団地」は準備万端整っていたのだが、鉄道計画もろとも崩れ去る結果となった。
さて、この計画用地はその後どうなっているのでしょうか?
■第84問 ★
実は武州鉄道は日本初の○○○○○になっていたかも知れないという話が伝えられています。
さて、この○○○○○(カタカナ五文字)とはなんでしょうか?
■第85問 ★
この武州鉄道の事務所は、吉祥寺の600坪の敷地に鉄骨で建てられました。
それは現在のどこでしょう?
■第86問 ★
昭和22年4月の町議会議員選挙は、定数36人を68人で争いました。
その36人の当選者中に5人の同じ職業の人がいました。
現在ではその職業のままでは選挙に出ることはできませんが、それはどんな職業だったでしょうか?
■第87問 ★
旧中島飛行機株式会社の東工場(武蔵野製作所)は、昭和20年12月に労働組合法が公布された等の世相から、旧中島飛行機株式会社の残留従業員(労働組合)が会社を作って、その会社に払い下げられた。
その会社は「○○○○○○○建設株式会社」という名前であり、社長には当時逓信院総裁を辞任したばかりで西窪在住の松前重義、役員には作家の武者小路実篤、活弁の徳川夢声、元貴族院議員の 近衛秀麿などがなった。昭和22年5月設立。
この会社は社内他で払い下げを受けた土地の活用を話し合った結果、野球場を建設することになり、昭和25年3月社名も 株式会社東京グリ−ンパ−クに変更した。
さて、この○○○○○○○に当てはまる文字は何か? 漢字7文字
■第88問 ★
旧中島飛行機武蔵製作所跡地には一時期大学・専門学校ができた。
日本歯科大学予科(現在の千川小学校)などである。
中でも、中島飛行機付属第一青年学校跡地(現在の市立第四中学校)には、
昭和21年1月から昭和26年まで某有名私立大学の医学部があった。
さて その某有名私立大学とは どこでしょうか?
■第89問 ★
昭和37年4月、武蔵野市では町名地番整理が行われてほぼ現在の形になった。
昭和24年12月発行の「武蔵野市及三鷹町地図(竹書房)」には、現在の吉祥寺にはない小字名がたくさん載っている。
さて、以下の10の小字名のうち、実際には無かったのはどれでしょう?
本田南、本田北、御殿山、中道南、八丁、野田南、野田北、稲荷町、霞町、本町
■第90問 ★
昭和43年の中野〜三鷹間の 国鉄(当時)中央線の高架複々線化工事完了まで、
中央線は南北交通の大きな障害であった。
吉祥寺駅東側で、当時、全国七大「魔の踏切」の1つと呼ばれていた踏切はどこでしょうか?
■第91問 ★
昭和36年の東京女子体育短期大学(音体:母体は藤村学園)の跡地買収は今日の吉祥寺にとっても大きな出来事だったが、当時市長はこの学園と特別な関係にあった。どのような関係か?
■第92問 ★
東京女子体育短期大学の跡地2,020坪の買収は、当時の武蔵野市の年間予算の約三分の一に当たる巨額なものだったが、当時のお金でいくらだったでしょうか?
■第93問 ★
昭和23年に施行された児童福祉法に基づいて
昭和24年、武蔵野市初の児童遊園が開設されたのは吉祥寺であった。
それはどこにあったでしょうか?
■第94問 ★
昭和40年代半ばの下水・排水の整備までの吉祥寺地区は、神田川以外に排水先がないため、少し雨が降り続くと、いたる所で滞水被害が発生した。
特に、現在の公園通りと中道通りの交差点あたりと、杉並区との境、本宿の吉祥女子高校南側のくぼ地はひどかった。
この吉祥女子高校の南側のくぼ地は 大雨が降るとまさに池だったという。
さて、この地区では大雨の際には、ある特別のものを利用して学童の学校への送迎をしたという。
その特別なものとは何でしょうか?
■第95問 ★
武蔵野市立の小学校は、武蔵野「町」時代までに造られたものと、武蔵野「市」になってから造られたものでは、ある大きな違いがあります。それは何でしょうか?
■第96問 ★
昭和23年に東京都が公営公衆浴場への交付金制度を設けたことを受けて
武蔵野市にも吉祥寺と境に二箇所だけ市営公衆浴場があった。
第一号は 吉祥寺市営公衆浴場ですが、それはどこにあったでしょうか?
