「吉祥寺(武蔵野市)歴史クイズ」 解答編
■第46問★
吉祥寺の老舗の写真館らかんスタジオの二代目鈴木育男さん。
初代の鈴木らかん清作は、何故「育男」と自分の長男を名付けたのでしょうか?
★★答え★★
らかんスタジオの初代清作氏は昭和5年に帰国するまで15年間アメリカ・ニューヨークで修行ならびに写真スタジオを開業(1920年大正9年創業)していらっしゃった。その思い出の地ニューヨークを想って息子に「育男」と名づけた。育男の「育」は「紐育(ニューヨーク)」の育である。吉祥寺に写真館を開いたのは昭和10年
出典「吉祥寺と周辺寸描」鈴木育男写真作品集(第2集)より
■第47問★
昭和37年3月吉祥寺駅周辺の再開発計画が発表になった。
その模型や図面を見ると街に商業中層ビルが林立し、広い区画道路は住宅街を分断していた。
あまにも現実ばなれした構想にまちじゅうは唖然とし、商店会ごとに喧々諤々の討議が行われていった。
さて、吉祥寺のまちを地域として本格的に考えるきっかけとなったこの再開発計画案を「何案」と呼んだでしょうか?
★★答え★★
「高山案」
武蔵野市が東京大学の高山英華研究室に委託してできた案であった。
出典「吉祥寺と周辺寸描」鈴木育男写真作品集(第2集)より
■第48問★
現在ユザワヤ吉祥寺店として賑わいを見せる吉祥寺ターミナルエコービルは、長らく閉鎖されたままで、吉祥寺最大の謎ともいわれていました。
さて、そのターミナルエコービルができる前その地には何があったのでしょうか?
★★答え★★
多摩青果市場
出典「吉祥寺と周辺寸描」鈴木育男写真作品集(第2集)より
名称:東京多摩青果株式会社
設立:昭和22年5月21日
資本金:3億6000万円
代表者:代表取締役社長冨沢彦昭
従業員数:350名
事業内容:全国内産及び輸入外国産生鮮野菜・果実の集荷販売、新規商品・新産地開発等の青果物卸売流通業
本社:
〒181-8680
東京都三鷹市新川6-37-5
TEL 0422(45)1111
戦時中、都内卸売会社は物価統制令による東京都内一社の東京青果物統制株式会社に併合。
戦後、統制会社は独占禁止法によって分割され昭和22年5月武蔵野市に本社を、都下北多摩地区一円に10支店を開設、新会社として発足。
営業地域の人口増加と急速な発展により取扱高は逐次増加、増資11回、支店網の整備統合計画を策定、推進。昭和40年、本社を三鷹市の現在地に移転。三鷹、調布市、荻窪支店を統合。
昭和44年、東久留米市に北部支店を開設。小平、田無支店を統合。
昭和48年、国立市に南部支店を開設。
立川、府中、中央支店を統合。
平成元年取扱高700億円突破、全国3位へ。平成4年、取扱高800億円突破。信頼と実績に培われ未来を見つめ、多様化する青果物流通に、21世紀の東京に健康な食文化を提供する企業として、限りない発展と力強い充実で、1,000億円商社を目指して躍進をしています。
*平成15年現在で全国第5位の取扱高
5 東京多摩青果67,903,58293.4543,355,76124,153,308
■第49問★
現在JR中央線は三鷹〜国分寺間の高架線化工事の真っ最中であるが、吉祥寺駅周辺が高架線となったのはいつだったでしょうか?
★★答え★★
昭和42年(1967年)10月29日
今から40年近く前になる。
出典「吉祥寺と周辺寸描」鈴木育男写真作品集(第2集)より
■第50問★
昭和39年(1964年)は東京オリンピック開催の年であるが、当時吉祥寺周辺のTAXIの
初乗り運賃は幾らだったでしょうか?
★★答え★★
中型車100円小型車90円、2kmまで以降中型車は450mごとに+20円、小型車は550mごとに+20円(また時間4分ごとに+20円)
出典「吉祥寺と周辺寸描」鈴木育男写真作品集(第2集)より
■第51問★
吉祥寺駅北口の東口通り商店街(三角地帯)などが取り払われ、北口駅前広場ロータリーなどが整備されて吉祥寺周辺都市計画事業が完了したのは昭和何年のことだったでしょうか?
★★答え★★
昭和62年(1978年)
平和通りの街路が現在の形になったのもこの昭和62年3月のことである。
出典「吉祥寺と周辺寸描」鈴木育男写真作品集(第2集)より
■第52問★
吉祥寺北口にかつて火の見櫓があったのだがそれは現在のどのあたりか?
★★答え★★
現在の一実屋さん(果物店)裏手ツバメ通り平和通りハモニカ横丁
出典「吉祥寺と周辺寸描」鈴木育男写真作品集(第2集)より
■第53問★
現在のJR中央線の中野-吉祥寺間が電化されたのは何年のことだったでしょうか?
★★答え★★
大正8年
大正11年には吉祥寺-国分寺間の電化と複線化が完成している。
出典「目で見る三鷹・武蔵野の100年」(株)郷土出版社より
■第54問★
武蔵野では最も古い道のひとつ五日市街道。
この街道ができたのは江戸時代初期だが当初は別の名前で呼ばれていました。
その名前とは何でしょう。
★★答え★★
「伊奈道」
当初は「伊奈道」と呼ばれて、秋川谷の炭を江戸へ運ぶ道として利用されていたがもともと沿道の村々を結ぶ生活道路の性格をもっていた。
街道名は明治時代以降「五日市街道」に定着した。
出典「目で見る三鷹・武蔵野の100年」(株)郷土出版社より
■第55問★
寛文四年(1664年)の吉祥寺村検地帳によれば、当時は各戸均等地割りで土地を所有していたことが記載されている。
さて、当時均等地割りであったそれぞれの間口はどれだけだったでしょうか?
★★答え★★
二十間
約18m。これが五日市街道に沿って均等割りに南北に伸びていた。
間口は二十間だが、奥行きはかなり長かったようです。
出典「目で見る三鷹・武蔵野の100年」(株)郷土出版社より
■第56問★
かつて現在の武蔵野市域に、明治大正期の経済界の指導者の一人渋沢栄一が創立した東京市養育院があった。
この養育院はやがて萩山に移転するのであるが、現在のどこにこの養育院はあったでしょうか?
★★答え★★
井之頭自然文化園の場所
東京市養育院井之頭学校と呼ばれていた。
ここには、身寄りのない少年児童を育てる寄宿舎があり、小学校課程と職業教育(技芸)課程があった。
出典「目で見る三鷹・武蔵野の100年」(株)郷土出版社より
■第57問★
井之頭公園にある「井の頭池」の命名者は誰であると伝えられているでしょうか?
★★答え★★
三代将軍徳川家光
井之頭の意味は、「上水道の水源」という意味あるいは「このうえなくうまい水を出す井戸」という意味の二つの説がある。7箇所の湧水口があったことから「七井の池」とも呼ばれていた。
現在の井之頭公園は江戸幕府直轄地から明治維新後は皇室御料地となりやがて東京市に下賜され、大正6年日本最初の郊外公園として開園した。
出典「目で見る三鷹・武蔵野の100年」(株)郷土出版社より
■第58問★
創立者中村春二によって大正4年に成蹊小学校として設立された現在の成蹊学園が吉祥寺の地に移転したのは何年のことだったでしょうか?
成蹊学園は2012年に創立100周年を迎えます。
★★答え★★
大正13年
移転の翌年大正14年には、七年制の成蹊高等学校が開校した。
また同時に気象観測所も設置された。大学は昭和24年開校。
出典「目で見る三鷹・武蔵野の100年」(株)郷土出版社より
■第59問★
東京女子体育大学、藤村の前身である私立東京体操音楽学校が小石川から吉祥寺に移転・開校したのは何年のことだったでしょうか?
★★答え★★
大正11年
出典「目で見る三鷹・武蔵野の100年」(株)郷土出版社より
■第60問★
現在も全国有数の優良財政で知られる武蔵野市であるが、昭和初期から太平洋戦争ごろまでも武蔵野町の収支決算はほとんど黒字であったといわれています。
これは何故だったでしょうか?
★★答え★★
関東大震災によって東京市が壊滅して以来、郊外である現在の武蔵野市に流入人口が非常に多くなり、その流入者(当時は寄留者と称した)の多くが高級サラリ−マンであったためと言われている。
出典「目で見る三鷹・武蔵野の100年」(株)郷土出版社より
■第61問★
明治22年4月の甲武鉄道開設とともに境停車場は開設されたが、当初は現在のJR三鷹電車庫あたりが有力候補地であったらしい。境村ではあることをアピールして現在の武蔵境駅の場所に誘致に成功した。さて、この時アピールしたのはどんなことだったでしょうか?
★★答え★★
「桜の名勝地がある」こと。
さらに、駅北側の道路新設と停車場敷地の寄付も条件につけた。
ちなみに大正8年に武蔵境駅と改称した。
ちなみに武蔵境駅には長らく北口しかなかった。(昭和36年駅誕生70周年の年に南口開設)
出典「目で見る三鷹・武蔵野の100年」(株)郷土出版社より
■第62問★
現在の西武多摩線は、多摩鉄道線として大正6年に武蔵境-北多磨間が開通した。
もともとは多摩川の砂利を運ぶのが目的であった。
ちなみに昭和2年に西武多摩線に改称している。
さて、開通当初この多摩鉄道は汽車でも電車でもなかった。
さて、この鉄道は何を動力としていたでしょうか?
★★答え★★
ガソリンエンジン
このため当時の人々はこの鉄道をガソリンカ−と呼んでいたという。
出典「目で見る三鷹・武蔵野の100年」(株)郷土出版社より
■第63問★
武蔵野市域に電気が供給されるようになったのは大正5年のことだが
さて、この電気を供給したのはなんという電気会社だったでしょうか?
★★答え★★
京王電気軌道株式会社
出典「目で見る三鷹・武蔵野の100年」(株)郷土出版社より
■第64問★
大正4年に渋谷で創業し、昭和5年に吉祥寺工場を開設、昭和8年から10年にかけて本社および工場を吉祥寺に集結させた現在の武蔵野を代表する企業の1つである電気関係の会社はなんでしょうか?
★★答え★★
横河電機製作所(現横河電機株式会社)
出典「目で見る三鷹・武蔵野の100年」(株)郷土出版社より
■第65問★
現存する「緩速ろ過方式」では日本最大(浄水量31.5万平方メ−トル/一日)を誇る境浄水場が完成したのは何年のことでしょうか?
★★答え★★
昭和8年
出典「目で見る三鷹・武蔵野の100年」(株)郷土出版社より
■第66問★
吉祥寺の文化の象徴の一つ前進座が設立されたのは何年だったでしょうか?
★★答え★★
昭和6年(1931年)
封建的身分制度、経済格差(当時1万5千円から下は25円)沈滞したような舞台と観客の関係など、青年俳優達の血を燃え上がらせていき、ほとんどが二十代の若手俳優32名で結成されました。創立6年の昭和12年に、稽古場等の中央部分と住宅二棟の演劇映画研究所を建設しました。
出典「目で見る三鷹・武蔵野の100年」(株)郷土出版社より
■第67問★
武蔵野町全域にガスの供給が開始されるのは何年のことだったでしょうか?
★★答え★★
昭和7年(1932年)
出典「目で見る三鷹・武蔵野の100年」(株)郷土出版社より
■第68問★
大正10年に開設された天然水泳場は、昭和8年に水泳プ−ルが完成するまで、夏の暑い時期は子供を中心に賑わいました。さてこの天然水泳場はどこにあったでしょうか?
★★答え★★
井之頭池
出典「目で見る三鷹・武蔵野の100年」(株)郷土出版社より
■第69問★
武蔵野町最初の映画館は大正14年に開館しました。
現在の吉祥寺通り(公園通り)の東急百貨店の向かいあたりにあったそうです。
さてこの映画館の名前は何だったでしょうか?
★★答え★★
井之頭会館
出典「目で見る三鷹・武蔵野の100年」(株)郷土出版社より
■第70問★
昭和22年11月3日武蔵野市が誕生します。
さて、東京都下では何番目の市制施行だったでしょうか?
ちなみに当時の人口は約6万3千人。
★★答え★★
3番目
八王子立川に次いで。
ちなみに四番目はちょうど三年後の昭和25年11月3日に市制施行した三鷹市で人口約5万5千人。
出典「目で見る三鷹・武蔵野の100年」(株)郷土出版社より
■第71問★
昭和28年町村合併促進法が制定されると、武蔵野市三鷹市の合併機運が高まり、昭和30年には両市の市議会で合併審議が行われました。
結局このときには片方が29票対5票可決。もう片方は賛成16票反対17票で否決され合併はなりませんでした。
さて、可決否決それぞれどちらの市だったのでしょうか?
★★答え★★
可決・・・武蔵野市
否決・・・三鷹市
当時の三鷹市長は引責辞任した。
ちなみに3年後の昭和33年にも合併案が浮上しましたが、今度は武蔵野市が否決となりました。
出典「目で見る三鷹・武蔵野の100年」(株)郷土出版社より
■第72問★
昭和26年5月中島飛行機武蔵工場跡地に「東京グリーンパーク野球場」がオ−プンし、国鉄スワロ−ズの本拠地となりました。
三鷹駅から分岐するグリーンパーク線と呼ばれる引込み線も開通しました。
ところが、プロ野球の試合はわずかに12試合で、この球場は使われなくなってしまいました。
これは何故でしょうか?
★★答え★★
ほこりがひどく、交通も不便なため…といわれています。
出典「目で見る三鷹・武蔵野の100年」(株)郷土出版社より